3ヶ月前、6月12日に私たちの家族として生まれてくれた娘、日梛(ひな)が9月16日の朝に他界致しました。とても綺麗な寝顔で救急搬送先大学病院でもまったく疾患などが見当たらなかったので、再度監察医に診ていただきましたところ「乳幼児突然死症候群」という7000人に一人という病気が原因との診断をいただきました・・・
僕らもあまりの突然なことで、気持ちが追いついていないのですが、皆様にもご紹介している愛娘のことなので、お伝えしなければと、キーボードに向かっております。どうお伝えすればいいのか、未だわからず、読みづらい文になってしまうかもしれませんが、ご了承くださいませ。
まずは、16日(木)から20日(月)にご予約いただいておりました皆様に、急なキャンセルのお願いにもかかわらず、心温まるお言葉を添えてご承知くださいましたこと、この場を借りまして、改めて、御礼申し上げます。本当に、本当にありがとうございました。お陰様で泣きじゃくっていた妻に寄り添う時間をいただき、少し落ち着いて来たように感じております。
では、長くなってしまいますが、最後までお読みいただけましたら幸いです。
そのときはとにかく突然で
・・・あったことを細かに書こうと思いましたが、小説ならいくらでも書けるし、実話でも違う内容なら細かな描写もできそうですが、やはりあの朝はもう無理すぎて。思い出そうとすると、本当にリアルに思い出してしまう。僕も辛いですが僕以上に妻にとって辛すぎてしまう。できる限り思い出したくないし、思い出させたくない。ですのでその場面の描写は触れずにお話しさせてください・・・
とにかく、早朝に妻が異変に気付き、心臓マッサージしながら救急車を呼んで、6人くらい来てくれて。大学病院へ向かいました。搬送先は区が変わると聞いてそんな遠くに!?と思いましたが、ここからは意外と近い病院らしく、救急車は、アナウンスで車に止まってもらったり、避けてもらったり、本当に、できる限りスピードを上げて急いでくれているのが伝わりました。その間も蘇生措置をしながらプロの仕事をしてくれていて、感謝しかありません。
病院に到着してそのまま処置を大学病院のスタッフが引き継ぎ、2時間弱、賢明に措置をとってくださいましたが、とうとう日梛が戻ってくることはありませんでした。
とても綺麗な顔で、まだ少し肌の温もりがあって、眠るように、透き通った肌の人形のように横たわっていました。そして、コロナではないこと、体に傷もアザも見当たらないこと、なので全身のCTもとったけれど異常が見当たらないこと、を伝えられ、「きっと母乳の吐き戻しが肺に入ったことによる窒息だと思います」と、僕が推測していたことと同じことを告げられた。
一旦集中治療室を出て母に電話する。
母は元看護婦長でもあったので、ここまでのの経過を伝えた。母は言葉を失い、死因には触れずに、「麻美ちゃんをしっかり支えてあげてね」とだけ、言ってくれた。
コロナだと、僕ら全員がかかっている可能性があるから違って欲しいと願ったし、うつ伏せによる窒息は僕も麻美さんも気づいてあげられなかったことへの後悔で押しつぶされそうになるからそうじゃないでくれ、などと考えていたので、吐き戻しは乳幼児にはよくあることで、どうしようもないことだし、その吐き戻したミルクがタイミング悪く息を吸ってしまった赤ちゃんの気道に入ってしまうことがあるので、麻美さんにはどうしようもなかったことだ、きっとどうしようもできなかったことだったよ、といって麻美さんを慰(なぐさ)めることしかできなかった。
ただ、麻美さんはそのとき僕が感じ取った以上に自分を責めていたように思う。とにかく、ずっと泣いていて、現実を受け止められないでいる。
やはり、そうは言っても遺恨は残るわけで。
なぜ僕は昨夜起きていてあげられなかったのだろうか。僕がずっと日梛ちゃんを見ていれば防げたこと。吐き戻しの際の音ですぐに気づいてあげられていればこんなことにはならなかったはずだから。なぜ気づいてあげられなかったのだろう。窒息。どれだけ苦しい思いをさせてしまったのだろう。
昨日は僕は仕事で家を空けていた。一昨日に日本脳炎の予防接種を受けた一惺が昨日の朝に熱を出してしまったために保育園を休んで、一惺と日梛ちゃんを二人とも麻美さんが見ていなくてはならなかった。僕が仕事から帰ったら、麻美さんは少し疲れた顔してた。それで夜も日梛ちゃんに常に意識を配って起きてるなんてできるはずないのに。なぜ僕はいつも通り別の部屋で寝てしまったのだろう(イビキでうるさくしてしまうので、寝室は僕だけ別)。起きて麻美さんと日梛ちゃんの側にいて、3、4時間おきの授乳の後くらいは僕が最後までげっぷを出しきって寝かしつけてあげるくらいできたはずなのに。側で起きていてあげることもできたはずなのに。なんで昨晩・・・。
「きっと母乳の吐き戻しが肺に入ったことによる窒息だと思います」
多分妻もその可能性を考えていたのだろう。
妻はもっと自分を責めている。「苦しかったんだね。」「辛かったね。」妻が日梛ちゃんに語りかけている。泣き崩れながら「いやだ。」「いやだよ。」「信じたくないよ。」って。
母親として抱える遺恨はどれほどのものか。間違いなく僕の比ではない。現実を受け止められるはずもない。後悔の念にさいなまれ、悲しみに暮れている。
妻に掛ける言葉が見つからない。妻の手をとって背中をさすってあげることしかできない。ただ寄り添って頷きながら横にいるしかなかった。
30分ほど日梛ちゃんと集中治療室にいただろうか。これ以上はいろいろな意味でよくないし、僕らは気持ちを押し殺し、霊安室に移った。警視庁の鑑識課の男性が来た。60歳くらいだろうか、こういうことのベテランであることはすぐわかった。
昨日から今朝にかけてのことを一通り話しを聞かれ、部屋に鑑識がくることも承諾した。日梛ちゃんはもしかしたら監察医に診てもらうことになるかもしれないと言われた。自宅でおきてしまった以上、鑑識は全てを調べる必要が出てくる。外傷がなく、生まれる前から疾患もなく、自然分娩で、生まれてからも完全に母乳で、妻がずっと側にいて大切に育てていた、非の打ち所のない環境で育った日梛ちゃん。まったく原因が見当たらないからこそ全身を調べなくてはいけない可能性が出てくるなんて。この矛盾とも取れる事実。やりきれない感情。
妻は日梛ちゃんが可哀想で、予防接種で大泣きをしていた痛がりの日梛ちゃんがそんなことになるのは耐えられない、と泣きじゃくる。あんなに丁寧に過ごして来たのに、最後の最後で体にメスを入れられるなんて辛すぎる。
きっと永遠に拒めば警察も強硬にはできないだろう。
でもあんなに大切に育てて来た麻美さんを変に疑われるのは嫌だった。
麻美さんの気持ちは痛いほどわかるけれど、やるやらないを僕らが選んではいけないと思った。妻が大切に愛情を込めて育てて来たのを見ているからこそ、やはりそれは拒んではいけない気がした。日梛ちゃんの綺麗な顔、安らかな顔がそこにある。あの深い愛情と潔白を明らかにしてと日梛ちゃんが言っているようにも見えた。
僕らは承諾し、日梛ちゃんを警察に預けることにした。
救急車で大学病院に着いてすぐに連絡した東京に住む妻の両親は、昼前に到着した。
3日前に麻美さんが急に思い立って自転車で実家に一惺と日梛ちゃんと3人で伺っていたので元気な日梛ちゃんを抱っこしたばかりだった両親。
突然の訃報に心がなかなか追いつかない義母。日梛ちゃんの顔を見て泣きながら妻の気持ちを思う。義父もやり場のない思いに、胸を押さえていた。
ただ、僕の母の来院は難しかった。僕は父を10年前に亡くし、母は千葉で一人暮らししている。老齢で、千葉の片田舎からここまで来てもらうにはいろいろとリスクがありすぎてしまうので、集中治療室で許可を取り、ビデオ電話で日梛ちゃんに語りかけてもらった。
コロナ禍で、千葉のお袋はずっと自宅で過ごしていたので、日梛にはとうとう直接触れることはできなかった。
そんな日梛ちゃんに語りかけている。「苦しかったね」「おばあちゃん何もしてあげられなくてごめんね。」「おばあちゃんももうすぐ行くから待っててね。大丈夫だからね。」
どれだけ寂しいことか。悲しいことか。お袋が咽(むせ)び泣く。
本当にお袋にとって辛いことだろう。 ごめんね。 さぞかし無念だよね。
もう、いっぱいいっぱいで一惺にまで心を配る余裕のない僕らを気遣ってご提案くださった妻の両親の言葉に甘えて、この日、一惺は 妻の実家に預けることにした。
一昨日の14日に妻がふと食べたくなって、餃子の材料(100個分)を買ってきて、昨日(一惺は保育園の予定だったので)作るつもりだったのが、一惺が熱を出して、保育園を休んだために100個の量を一人で包む時間はないからと、先延ばしにしていた餃子を、今日、夫婦水入らずで作ることにしました。そういえば、日梛ちゃんの出産前日も餃子100個作ったな〜と言いながら作って冷凍しようとすると、冷凍庫に、前回(日梛ちゃんが生まれる前日)の餃子が2個だけ残っているのを見つけた。
日梛ちゃんがお腹にいる状態で一惺も一緒に家族みんなで作った餃子。
まさか作った次の日に陣痛が来て出産するなんて考えてもいなくって。
あの時も麻美さんがなんとなく食べたくなって作った餃子は、結局予定日より1ヶ月早く生まれた日梛ちゃんが、産まれた後母に手軽にスタミナをつけてもらうためにきっと日梛ちゃんが僕らに作らせたんじゃないかって妻と話したのを覚えています。
まさか日梛ちゃんが亡くなった今日この日に、まるで僕らを慰めるかのように2つだけ出てくるなんて。
日梛ちゃんからのメッセージな気がすると妻は言う。
夜、2人涙ながらに、お腹に宿した日梛ちゃんと一緒に作ったあの餃子を一つずつ、大切にいただきました。
愛嬌のある日梛ちゃんとの写真は、とにかく多くって、動画も含めて、1084枚あります。お腹にいる頃から、それこそ昨日の夜中の12時に撮った写真まで。
加えて、一惺4歳記念とクルティーヌ 10周年記念で常連の写真家さんに家族写真もお願いしたので、9月7日、8日に皆んなで家族写真を撮ったばかり。(この写真はまだ現像途中。)
最初は生前の写真を、今見るのは辛すぎるかとも思いましたが、やっぱりいつまでも悲しみ続けていても仕方ない。愛嬌のある日梛ちゃんに慰めてもらってぶさいく顔に笑ったり、思い出して号泣したりして、存分に悲しみを出しきったほうが健全な気がして。この夜は二人でずっと日梛ちゃんの写真や動画を見て、心寄り添って過ごしました。
17日。
監察医の方は、僕らの気持ちを汲んで、翌日朝一に監察医がメスを入れる段取りにしてくださいました。朝6時30分から9時頃までと聞いていたので、17日の朝、僕らは「日梛ちゃん痛いけど頑張れ!がんばれ!」と心で祈りながら過ごし、妻の実家に一惺を迎えに行きました。
家族みんなで荻窪警察署に日梛ちゃんを迎えにいく途中、唐突に「ねぇ、日梛ちゃん治ったかな。」と一惺に問われて、でも濁すわけにもいかないしと困って思案していると、麻美さんが「ううん、日梛ちゃんは死んじゃったんだよ。」と。
一惺が勘違いしないようにストレートに答えてるのを聞いて、僕は「そうだよ。」としか言えなかった。
きちんと現実を見つめて逃げずに迎えにいく、そんな麻美さんと一惺の短いやりとりは、いじらしくもあり、とても清く感じた。
警察署に着き、受付で件の刑事さんの名を伝えるとすぐに来てくだり別室で話を伺った。日梛ちゃんの死因は、「乳幼児突然死症候群」というものでした。
「体のどこにも何も悪いところはありませんでした。血液検査、全身のCTスキャン、開胸した内側、それでも死因が特定できないので、大変申し訳ないのですが、開頭して脳まで、全てを調べさせていただきました。その結果、完全に全てが正常。全くどこにも死因につながるものはありませんでした。現在の医学で探し尽くして、どこにも原因が見つからない。ですので、”乳幼児突然死症候群”との診断となりました。」と。
僕は「え!」という言葉しか出なかった。
その後も少し話を聞いて、
「肺にミルクが入ってはいなかったのですか?」と改めて確認すると、
「はい。肺の中は全く綺麗でした。乳幼児の喉はとても細いので、首がやっと座って、首を左右に振ったり、寝返りをしようとした際に稀に気道が塞がってしまって窒息、という例もあるのですが、監察医の先生から、窒息ではないと伺っております。」と。
チラリと見えた監察医の先生から伺った話のメモであろう走り書きにも、”窒息ではない”と明確に書かれていた。
ただ、ただ、驚きました。
それしか考えられず、ほぼそれが死因だと確信して考えていたので。
妻はずっと異変に気づいてあげられなかった自分を責めていたのに。どんなにか息苦しいく、辛い最後だったかと、ずーっと自分を責めていたのに。
あとで母(元看護婦長)にそのことを話すと、「大学病院の先生が、推測でなぜあんなひどいこと(きっと母乳の吐き戻しが肺に入ったことによる窒息だと思います)が言えたのか、CTも撮ったと言ったのでしょう。なら肺にミルクが入っているのかいないのかは分かるはずなのに。その医師(実際は若い男性だったのでもしかしたら研修生とか、勉強中の大学生だった可能性もあるけれど)が信じられない、自分の与えた母乳で子供を死なせたなんて、母親にとってどれだけ辛いことか。どんなに無念な思いに苛まれるかまったくわかってない。本当に信じられない。だから、あんたからあの時にその話を聞いて、私は言葉を失ったのよ。」と咽び泣きながら言われ、僕は(自分もそこまで思い至らず、肺に入ったことでの窒息が原因で、事故みたいなものだと慰めてしまっていたので、逆に麻美さんを傷つけてしまっていたことに気づかされ)ハッとした。
結果、どこにも原因が見当たらないということは、麻美さんの落ち度などどこにもなく、日梛ちゃんの失敗もどこにもなかった。誰も、なにも悪くない。
それを聞いて、麻美さんは少しだけ、前を向けるようになったように感じた。
正直、僕も救われた思いだった。
監察医に日梛ちゃんを預け、その綺麗な体にメスを入れるのはずっと辛かったけれど、こうしてきちんと調べていただいて、むしろ良かった。あの時日梛ちゃんが安らかな顔で、僕に拒まないでいいと伝えてくれているような気がしたのは、やはり日梛ちゃんからのメッセージだったんだと思っている。
それは日梛ちゃんが、亡くなった後までがんばって耐えてくれて、まさに体で証明してくれた真実。
日梛ちゃん、ありがとう。麻美さんがそれでどれだけ心に纏(まと)わりつく重りを外すことができたか、想像に難くない。
これで、みんなでしっかり前を向いて、日梛ちゃんを心に抱きながら歩んでいけます。
追伸
コロナ禍で皆様には全然お顔を見ていただく機会がなかったのですが、むしろ、僕ら家族に会いに来るためだけに純粋に生まれてきてくれたのだと今は感じています。3ヶ月だけの短い時間でしたが、たくさんの写真や動画を残してくれました。
成長が早く、愛嬌たっぷりでよく泣く子でしたが、泣いたら、オムツか、母乳を飲みたいのか、げっぷがしたいかのどれかで、げっぷが出たり、オムツを変えに来たとわかるとピタッと泣き止む、そんな子でした。オムツは、ちょこっとおしっこが出て濡れただけで泣くので、日に20回くらい(ネットで調べたら平均の倍くらい)変えてました。母乳の飲み方も下手っぴで、空気も一緒に飲みながらすごい勢いで「ゴキュッゴキュッ」といわせながら喉元まで飲むので、吐き戻しもすごく多い子でした。せっかく母乳を飲ませたのに吐いてしまい、こちらは大慌てなのを横目に本人はすっきりした顔をしてキョトンとしてる、そんな子でした。吐き戻すことが多いので、僕らもその原因の一つとなる、げっぷを授乳後はとにかく出させるために背中をトントンと叩いて、空気をお腹から上へ運んであげる。すると、「げふ〜っ」と大きなげっぷをして気持ちよさそうにする子でした。
僕に似てしまった”ぶさいく顔”が妙に愛らしく、やっと最近になってキャッキャと笑うようになってきて、それがまた可愛いくて。
普段はみんなと同じ部屋のソファーに寝かせていて、台所に立つときはその近くに寝かせてマミさんの姿が常に見えるようにして、調理の音や食器の音などを聞かせてたり、お風呂掃除の時は脱衣所に寝かせてその水音を聞かせてたりしてたので、麻美さんは今でも、何をしていても後ろに日梛ちゃんが寝ているような気がしてるみたいです。
母乳もよく飲んでいたので、せがむ頻度が多くて、よく呼ばれる(泣かれる)し、オムツでも頻繁に呼ばれるし、げっぷがしたいとこれまた呼ばれるし、眠そうにしているのに寝付けない時も、呼ばれて抱っこしてなきゃいけなかったりで、もうとにかく手のかかる子で妻はいつも忙しくしていました。
ただ、妻にとっては、「今思えば、できるだけたくさんの触れている想い出を残してくれたんだと思うの」とのこと。一惺(いっせい)と比べても本当に忙しくて大変だったけれど、それは幸せな忙しさだったんだなって・・・、失ってから気づくなんて・・・。なんてバカなんだろう、といって泣きじゃくっていました。
前日までは本当に何事もなく、いつも通りで、僕が19時頃帰宅して会いに行ったら寝室でスヤスヤ寝ていて。一惺とお風呂に入って歯磨きして、日梛ちゃんの隣に川の字で寝て、一惺が寝たら、リビングで「青天の空」を夫婦で見て、寝室に戻ると日梛ちゃんは喉が渇いたみたいで、自分の手をチュパチュパ吸っていたので、麻美さんに伝え、母乳をあげる・・・。これからもずっと続くと思っていた日梛ちゃんとの日々。
起きているときは元気にず〜っと手足をばたつかせて動いていて、母乳もよく飲むし、声もよく出すし。今でも寝室に寝ている気がする。
日梛ちゃんはひまわりがとても好きで、一惺を保育園に連れてゆく時に道端にある向日葵をよく見ていたそうです。同じ”日”がつく名前同士、親近感があったのでしょうか(笑)
18日の火葬の日はあいにく台風接近のど真ん中。けれど、親族みんな集まってくれて。コロナ禍で生前誰にも合わせてあげられなかったのに。出棺の際には小降りになり、火葬中から帰りにかけて、まるで天が涙しているかのような雨が降りました。
そして、その帰り道、不思議なことがおきました。
カーナビを自宅に設定して車を運転していると、いつまでも裏道から出ようとしない。「なかなか知っている道に出ないね。」なんて言いながら進むと、程なくしてやっと知っている道にでた。「この道は・・・あれ?」二人で顔を見合わせる。
「ちょっと待って、え?」と言いながらも、案内されるままに車を進めると、「到着しました」と。どう見たって自宅じゃない。
カーナビが案内したのは、日梛ちゃんが生まれた、小さな一軒家のファン助産院でした。
僕も妻もすごく驚いて。言葉になりませんでした。
よく見ると、助産院住所を登録したタイミングが、自宅を登録した次だったようで、自宅の住所の下に助産院さんの住所が登録されていました。そのことに初めて気づいたし、いままでカーナビの行先を設定し間違えたことなどなかったのに。
なんだか日梛ちゃんに連れてこられた気がして、喪服のままでしたが、先生にご挨拶に伺って、この度のことをお話ししました。妊娠1ヶ月検診や、入院の際も親身になってお世話してくださった助産師さんも偶然居合わせて。
土曜日で、普段ならとても忙しくされているはずなのに、台風ということもあって、来客もほとんどなく、お二人とゆっくりお話しすることができました。
もちろん、最後にこの場所に来たかったんだろうとか、この二人に日梛ちゃんが会いたかったんだなとも思いましたが、きっと、日梛ちゃんが麻美さんのために、乳性炎にならない様に、卒乳を早めに、しっかりねと言ってくれているのもあるんだろうねという話になって。
麻美さんは、悲しいお知らせになってしまうので、ファンさんに伝える心の準備がなかなかできなくて。産後も日梛ちゃんをとても可愛がってくれた助産院さんなので、卒乳も来づらくって、別の助産院さんや、とにかくファンさんじゃないところに行こうかなって思ってたと打ち明けたら、「なんでそんなこと言うのっ」て怒られたそう。「もちろんとても悲しくて辛い、やりきれない気持ちだけど、ちゃんと知ることができて、よかった。」と。「善塔さんの心のケアも私たちに任せてくれたんだね。ひなちゃんが後押ししてくれたんだね。本当にママ思いの優しい子だね。」と。
なんてことでしょう。どこまでいっても日梛ちゃんはやさしい子です。
その次の日からはご存知の通り快晴。まるで日梛ちゃんのような澄み渡る空。ただ、いつも日梛ちゃんが見ていたひまわりだけが枯れてしまっていました。
出棺の際にお見送りくださったマンションの方々、誠にありがとうございました。日梛ちゃんは小さくなって我が家に帰ってきました。日梛ちゃんの大好きなひまわりと、最後の日に来ていた服と同じ淡い青色の花(オキシペタラム 花言葉:信じ合う心、幸福な愛、身を切る想い、サムシングブルー)、スターチス(変わらぬ心、途絶えぬ記憶)をいっしょに添えて、お線香をあげています。
有難いことに、純白の花かごを持って焼香にきてくださったご近所の方もおられ、母が送ってくれた純白に淡いピンクの差し色の花が可愛らしい花かごも届き、お花に囲まれて日梛ちゃんはきっと喜んでいます。
9月19日はクルティーヌ の10周年記念日と、そして日梛ちゃんが生まれて100日目の記念日でした。麻美さんがお食い初めだけはしてあげたくて、金目鯛尾頭付きや蛤のお吸い物、煮物、赤飯を準備し、夫婦で日梛ちゃんのお食い初めをお祝いしました(一惺はまた妻の実家)。テラスで夫婦水入らずでお酒を飲んで。
21日の今日は中秋の名月。夜空の満月を見ながら、麻美さんと一惺と、日梛ちゃんと家族4人ですき焼きパーティー、そして手作りのみたらし団子でお月見をして過ごしました。
これからも変わらず我が家は4人家族。天国へ向かった日梛ちゃんはきっとこれからも守護天使として僕ら家族を見守ってくれます。
3ヶ月という短い人生でしたが、力一杯、一生懸命に生きて、僕らにたくさんの想い出と、学びを残してくれました。これからもずっと、家族みんなで仲良く、楽しく、思いやって生きてゆきます。
日梛ちゃんは僕らが忘れない限り永遠に生きている。だから、絶対に忘れない。いつも胸に日梛ちゃんを抱いて歩いてゆきます。
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今日は初七日。家族みんなで一緒に過ごそうね。